第3話 インフルと労務管理

 院長春山俊彦は、水しぶきをあげながら慣れない手つきで午後の診療に必要な器具を洗い、滅菌機のタイマーをかけた。「ハアーッ」と大きなため息が漏れる。
 (次は俺の番か…)
 受付からは「お会計は840円です」。歯科医師石塚大五郎の野太い声がしてきた。
 一昨日、夫人春山理子が空気清浄機を買いに走ったかいもなく、インフルエンザは春山歯科医院を容赦なく襲った。今日は歯科医師を含むスタッフ4名が熱を出して休み、夫人もついに昨夜からダウン。こういう日に限って急患が立て続けに入り、午前中の春山歯科医院は戦場と化した。
 原因は、2カ月前に入ったバイト歯科衛生士三村玉枝だった。
 1週間前、上気した顔にうつろな目でアシスタントに付く三村に「熱あるんじゃないか? 無理せんと休めよ」と声をかけたのだが、「風邪くらいで休むなと父に言われ続けて、小中高と皆勤賞だったんですよ」と一笑に付されてしまった。春山歯科医院では労働基準法通り最初の6カ月間は有給休暇がない。一人暮らしの三村がバイト代欲しさで強がっていることが春山にも分かり、それ以上何も言えなかった。皮肉なことにその三村の風邪も今ではすっかり治り、何食わぬ顔で働いている。
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 「37度以上の発熱時は自宅待機」。これは一例だが、特に医療機関に対しては独自の基準を設けることが求められる。その基準が行政の自粛要請基準を超える場合、使用者側の都合による休業とみなされ、休業手当を支払う義務が生じる。しかし未然防止に力を入れようとすれば、どうしたってその基準を超えて設定することが不可欠なのだ。
 休業手当の額は平均賃金の60%以上。つまり過去3カ月間に支払った給与総額を日割した6割だ。そこに通常のボーナスなどは含めない。たとえ入社3日目のアルバイト社員であっても支払義務があることに注意されたい。インフルエンザがピークを迎える冬本番前に周知徹底した対策を講じることで、院内蔓延・患者への感染という最悪な事態は避けられる。

日本歯科新聞1629号(2009/12/8)