第1話 ピアスと労基法89条

「この、くそばばあ」。小声で吐き捨てるように言って歯科助手千倉まどかは院長室から飛び出して行った。
 ちょうどその時、夫からの電話が携帯に入らなければ、気性の激しい院長夫人春山理子は千倉を追いかけていく衝動を抑えられなかったであろう。
 事の発端は千倉のピアスだった。
 彼女の耳に光るピアスは一つずつ増え続け、今では両耳で10個だ。
 保守的な年配の患者がピアスだらけの耳を見てどのように思うか。従業員教育もろくに出来ない歯科医だと馬鹿にされやしないか。院長春山の不安は募る一方だった。ただでさえこの1年で近所に2件も歯科医院がオープンして、患者は確実に減っている。
 こういうことは女性から注意した方が角が立たないということで、わざわざ院長が不在の日に夫人が千倉を呼んで注意したのだ。
 しかし千倉の側にもそれ相当の言い分がある。
 春山歯科医院の場当たり的に決まる規則に、これまで何回苛立ちを覚えたことだろう。そんな経緯から今日は夫人に悪態をついてしまった。
 採用時も「来週月曜日から来て下さい」と言われただけで契約書も何もなかった。
 大学を卒業して就職した企業では、入社時に契約書と就業規則を渡された。休暇のページだけ目を通し、後は退職時まで引出しの底で眠ったままのものだったが、就業規則がないという不便を実感させられた。
       ◆
 労働基準法89条は、従業員10人以上の事業所に就業規則の作成を義務付けている。今回のポイントは10人以下でも作成すればその効果を発揮するということだ。
 就業規則には勤務時間などの法定記載事項の他に、任意で服務規律を定めることができる。
 「医療現場にふさわしい身だしなみを守ること。ただし最終的には院長の判断に従うものとする」。このように規定しておけば今回のようなケースには充分対応できる。
 また就業規則を労働契約書として採用時に渡すことで、就業規則の要件である周知義務も果たすことになり、非常に効率的である。

日本歯科新聞1621号(2009/10/13)