第30話 定期代と自転車通勤

 院長春山は苦々しく、玄関脇の駐輪場に止まっているピンクのマウンテンバイクに目をやった。7カ月前に入社した沢登はるかは、卒後7年。厳しくて有名な某歯科医院で鍛え抜かれた歯科衛生士だ。即戦力にもなるし、実力もあると見込んで即、採用した。
 一つだけ問題があるとすれば、それは自宅が遠いことだった。6カ月の定期代が9万円台と、医院の中では群を抜いて交通費が高い。それでも、春山歯科医院で採用する価値があると判断して採用を決めた。
 しかし、信じられないことに沢登は、入社1カ月たつころから自転車で通ってくるようになったのだ。履歴書に「趣味サイクリング」と書いてあったのは記憶にあるが、○○キロはあるこの遠距離を自転車で来るとは想像すらできなかった。
 しかし、春山には腑に落ちないことがあった。電車に乗らないのなら定期代も必要ないだろう。非課税枠ギリギリの高額な交通費を払っているだけに、それが余計に鼻につく。それを沢登に言ったところ、キョトンとしてこう答えた。「労力を使って、自分の財布から出たお金で買った自転車で通勤しているのに、どうしてダメなんですか。それに大雨の場合は電車に乗ることもあるので」。
 悪びれた様子は一切ない。果たしてこの言い分は正しいのだろうか。
       ◆
 本来ならば、通勤手段の選択は従業員ではなく事業主にある。交通費は実費で払えばよく、乗らないのであればそもそも支払い義務も、その日に関しては発生していないことになる。それを定期代としてもらっている場合、従業員にとっての不当利得となる。
 理想は毎日乗った分を申請して給与で払う方法だ。しかし、定期にすればかなり割安かつ給与計算作業の煩雑さが軽減するため、定期代で支給するところがほとんどだ。その場合には「必ず定期券を購入した領収書を提出させる」等の処置を講じておくことで、不本意な交通費の支給をある程度避けられる。
 また、自転車通勤の場合でも、その最中にけがをすれば通勤災害に該当することから、規定等で自転車通勤を禁止する方法もある。

日本歯科新聞1741号(2012/5/8)